St.Patrick’s Day に見る多様性の本質 – その2  移民到来を前に慌てないための3か条

ま、職場でこんな「多様性」があることはないだろうが・・

「求む、多国籍従業員の管理経験者」

5年後、そんな求人広告が日本でも出始めるかもしれない。昨日の投稿で触れたように、好き嫌い抜きにこれからも日本へ来る移民は増えていくだろう。(それが政策的かどうかはここでは議論するつもりない。)

ということは、上司が・部下が・同僚が外国人という場面が日本でももっと普通に出てくるだろうし、いわゆる本当の意味での多様性が日本でも求められる時代はもうすぐそこに来るんだと考えている。こうした来るべき現実に準備しておくために、自分が普段心がけていることが一助となればとの思いで書いてみたい。

#1 移民にも活躍を許す懐の深さ

よく本稿のようなトピックに関連して、「アメリカは移民で成り立ってる国だから、移民の扱いに慣れてる」という発言を耳にする。だが、アメリカとて最初は移民との付き合い方がうまかったわけではない。St. Patrick’s Dayということでアイルランド移民を例にとると、19世紀アイルランドからやってくる続々とやってくる人々に最初アメリカは職を与えようとしなかった。

“No Irish need apply”である。よって彼らは「命を張る」仕事に就かざるを得なかった。つまり土木工事、警察、消防、軍人といった類だ。でもアメリカの道路はアイリッシュアメリカンによって造成されたというくらい、彼らの存在は以後称えられる。今でもこうした職業につく人々の姓(ファミリーネーム)の綴りが「O’」「Mc」「Mac」で始まっているのをニュースや映画でよく見るが、それはアイルランド系の末裔を意味している。

このリストにあるように、彼らはアメリカでかなり活躍した。その極致は特にJ.F.ケネディーが大統領だろう。現在アイルランド系の人々は完全にアメリカ社会に取り込まれている。途中大なり小なりの差別はあっても、結果を出す移民の活躍を認めてあげられるアメリカの懐の深さは指摘しないわけいかない。

(最近だとハーバード出身の台湾系NBA選手ジェレミー・リンかな。)

アイルランド人・アイルランド系アメリカ人はこうした歴史を知っているからこそ、St. Patrick’s Dayを大事にする。

#2 移民達のコミュニティーを尊重する

我が家の近くの通りにはいくつものキリスト教各宗派の教会が並んでいる。自分からすればその違いなんてはっきり言ってサッパリわからない。でも彼らの中には「教会仲間」という明確なコミュニティー意識がある。それは会社や立場を超えて存在するもので、もしその結びつきの強さを知らずにいれば、思わぬところから「あの人は・・」なんてリファレンスチェックで突っ込みいれられてしまうかもしれない。

オフィスに行けばイスラームな人々は「ちょっと礼拝の時間だから離席する」といって、普通に勤務時間中にいなくなる。(まー1日5回求められる礼拝の中で、勤務時間中は1回だけにするという調整はしているようだが。)だが、「業務に支障をきたすから」という理由で彼らの行為を厳しく取り締まったらどうだろうか。(もちろん会社のポリシーにもよると思うが)彼はおそらくあなたのマネジメントスタイルに疑問を持つのは間違いない。

「あ、XX人だ。彼らはYYな人種だからZZという行動をとる連中だな。」というステレオタイプに依存すると、おそらく何も良いことはない。そういうものはどこかの学者が一緒くたに抽象化しただけであって、現実はそんな薄っぺらいものではない。その人の行動を見る、どんなコミュニティーとつながっているのかを知る、彼らが価値を置くものを理解する、ことは異文化が「摩擦」に陥らないための第一歩だ。

#3 移民にも家族はいる

者によっては家族を置いて、自分の身一つでやってきたという場合もあるだろう。彼らは(良くも悪くも)さまざまな理由で郷を離れ、新しい土地にやってきた。そんな艱難辛苦を支えるのは遠くに残した家族や子どもたちであり、彼らにとっては生命線である。職場のルールだから、これがうちの会社のカルチャーだから、という理由で彼らと家族を分断するような働かせ方があってはならない。そんなことしたら、パフォーマンスを大幅に落とすだけ。そして「やっぱりXX人はダメだ」などという判断を下そうものなら、その人の良識を疑う。

親が子を思う気持ちに国境はない。そのことを忘れてはいけない。

St. Patrick’s Day に見る多様性の本質 – その1

3/17はセントパトリックスデーである。一体それ何?という人はココを見てください。USではこの日は祝日ではないが、祭典の日ということでハロウィーンなんかと同列に置かれるくらいに大事にされている日である。19世紀にアメリカに移住してきたアイルランド人がUSでも広め、現在はその末裔たるアイルランド系アメリカ人(もちろん普通のアイルランド人も)が主役になる日だ。

アイルランドという国は、渡米前は全くといっていいほど「ノーマーク」だった。せいぜいバグパイプ、ビール、ロイ・キーンとか有名なものを単品でかじった程度というレベル。だが、USに来てこのセントパトリックデーのことを娘が学校で学んできたり、昨年出張で初めて北アイルランドを訪れ、そこで見たリアルや、話を聞いた内容を整合していくと、実はかなり歴史的な意義があるのだと気がつかされた。そしてアメリカでこの祭典の日を考えるに、移民という文脈ははずせない。それはアメリカからみたアイルランド移民、そしてアイルランド人からみたアメリカという意味で。自分も今ビザ上は「移民」扱いなので、こうしたトピックは他人事には感じない。

今日本で民主党は移民政策をすすめようとしているみたいだが、そんなこと言う以前にすでにここ数年でどんどん外国人が日本に入ってきている。これはもう記事で言っている「視野に入れて」どころか、差し迫った現実なんじゃないか?おそらく向こう5年で否応なく日本の多様性はもっと広がる。そうなったときに「多様」の範囲と意味をどう考えるのか、自分がUSで「移民」として過ごす中で考えることをいくつか書いていきたい。

(続く)

「集団」のパラダイムシフト。実は強い日本人プロフェッショナル – その2

車好きな方ならすぐわかると思うが、上記写真はEnzo Ferrariである。2002年に7500万円で発売されたもので、399台しか生産されていない。しかし発表当時その注文はその10倍に達し、未だにその中古車は1億円ほどで取引されているという。そのデザインは今なお色あせておらず、見る人に強烈なインパクトを残す。

だが、ご存知だろうか。この車、なんと日本人がデザインした。奥山清行というデザイナーである。(しかも1スタッフとしてではなく、チーフデザイナーとして。)この人他のフェラーリ (599やカリフォルニア)や、マセラティー・クアトロポルテ(5th gen) といった「名車」なんかも手がけたツワモノだ。

この奥山氏のみならず、海外で戦う「個人」としての日本人は実は思いのほか多い。サッカーを初めとするスポーツの世界しかり、アートや建築、そして途上国で命を救い続ける吉岡秀人さんのように医療の世界にも。ここシリコンバレーでもプログラマー、ITプロフェッショナルとして、自分など全くもって霞んでしまうような活躍をされている日本人の方々もいる。みな「個人」としての腕で、勝負している。

一方、Sony TabletよりもThe New iPadが圧倒的に注目され、Sonyの時価総額Appleのそれと比べて見る影もない。小飼氏はSonyの投入する製品に対し、顧客セグメントへのフォーカスがぼやけていると説く。考えてみてほしい、セグメント分け、ターゲット顧客プロファイルの設定はマーケティングの基本中の基本なのにこの体たらくである。

なぜ企業対企業の戦いでグローバルの世界で日本はなかなか勝ち抜けず、個人対個人というレベルでは十分に勝てるというパラドックスが発生するのだろう?ふと、こうした「世界的日本人」とでも言える御仁達を思い描いていくと、3つポイントがあると思う。

1. 集団を知り、集団から離れる「個人」

2. “Zone”に入ることができる「個人」

3. 己に対する規律を保てる「個人」

< 1. について >

彼らは普通に日本に産まれ、幼少期を日本で過ごしている。要は日本人としての価値観の形成期に「集団」の中で過ごしている。ここには重要なポイントがある。日本の幼少期集団教育の質の高さだ。USに来て子育てをするまで気がつかなかったが、日本の幼少期教育(保育園・幼稚園・小学校)の質はアメリカのそれと比べて高いと思う。詳しくはまた別の投稿で詳説するが、1例をあげれば日本の子供はUSの子どもに比べ非常に手先が器用。誰かの言うことを(良くも悪くも)聞くという姿勢が徹底している。USの子どもに折り紙をやらせてみると、正直ぐちゃぐちゃだ。こちらが説明しても、その通りにやろうとするのは一部のみ。みな途中から好き勝手主張して、勝手なことをやる。一方日本の子どもは、教えることを忠実にやろうとし、また実際にできる。

つまり、プロフェッショナルとして育つための「土台」が実は日本人は強固なのだ。

そして世界的日本人は皆、心地よかった集団から離れることを厭わない。(もしくは集団に違和感を感じて出て行く場合もあるだろう)いずれにせよ一端集団から離れないことには次の段階に到達できないと感じている。

<2. について>

「Zoneに入る」とはアスリートの世界で使われる言葉。プロアスリート達は極度に集中力が高まると、

(野球で)ピッチャーが投げたボールの網目が見える

(サッカーで)パサーが出したボールの球筋と、トラップからシュートまでのイメージがスローモーションで再生される。

(F1で)コーナーに差し掛かったとき、実際には200Km/h以上出ているにもかかわらず、車がゆっくり走っているように見え、あと1mmだけ内側に寄せられる。

というおよそ日常では考えられないような状態になる。そしてこれはスポーツの世界だけではない。プロフェッショナルの世界では普通にあることなのだ。シリコンバレーにいるプログラマー達にも、自分が面白いと感じたコードを書いているときには「テトリスを最高速でやってるのに、スローに見えて次から次へとブロックが消えていく」ような感触で書けるという。

誰しもがZoneに入れるわけではない。そこにはプロとして自らを研ぎ澄ますことを惜しまなかった人だけが到達できる場所である。だが、彼らは皆、世界で勝つためにはZoneに入れるくらいでないといけないことを感触として知っている。(ただし、当人が「あ、いまオレZoneに入ってる」という意識はないそうだが。)

<3. について>

2.で述べた「Zoneに入る」ことを可能にするもの、それは自らに対する規律だ。

これはいろいろな現れ方をすると思う。何も「規律」と聞いて「苦行」だけをイメージしないで欲しい。例えば上記奥山氏は、毎日毎日何枚何枚も絵を描いた。チーフデザイナーになった後もだ。ヒマさえあれば描く。それも紙だけじゃなくてコーヒーカップとかあらゆるところに。

なぜか?

「一本の線」が違いを生むと感じているからだ。氏はその1本の線を日々書き続けた膨大な「線」から引き出し、ヒラメキを発動する。

彼にとって絵を描くことは苦行だろうか?そうは思わない。そこにあるのは「描きたいことを描く」、シンプルな規律である。

しかしそうして積み重なったものは簡単にマネできない。ゆるぎない柱としてその「個人」の中に生きる。

考えてみて欲しい。日本人は「規律正しい」のではなかったか?東日本大震災で日本人の「規律」が絶賛されたように。日本人にとって規律とは、もともと備わっている能力。それをプロとして正しく使えるかが問われるのだ。

話をまとめると、日本人のプロフェッショナルは、そもそも世界で戦うプロとして育つための確固たる土台をもともと備えているのであり、そこに「規律」を持ち込むことができる。集団を離れる勇気を持ち、Zoneに入ってこれる(もしくはその境地に近づく)と、もはや世界は恐くない。十分に戦えるどころか、凌駕する力を発揮できる。

残念ながら今の日本の「企業」という枠の中ではこうした日本人プロフェッショナルの潜在性を生かしきることができないように見える。「個人と組織は違う」から、いたしかたない面があるのはわかる。グローバルマーケットでの惨敗を前にいつまでそのような言い訳を続けていていくのだろうか。組織は個人によって作られることを忘れてはいまいか。